しんとしてますか?
最近、「慌ただしい!」とか「忙しい!」とか「疲れてる!」と言うこと自体の「楽さ」にすっかりスポイルされてて、忙しぶっているのが常態化しています。
「忙しい」「慌ただしい」ということをアピール(誰に?)することで、「これ以上の面倒ごとはごめんだよ!」と予防線張っているんですよね。(だから誰に?)
でも、そういうのが常態化していると自分の時間なのに自分が振り回されてる感があるし、予防線張っている割にはいつだって面倒ごとは起きるし(自ら面倒ごとを起こしていることも多い)、あまり良いことはないなあ!と最近しみじみ思います。
同時に、最近「しん」としていないなあ、と思いました。
「しん」とする時間が、
子供の頃は、たっぷりあった気がします。
夕食後に自室にこもって過ごす時間、寝る前のベッドでの一人の時間、登下校の一人になるちょっとの時間。
そんな時、つらつらと様々なことに思いを馳せたり、ぼーっとしたり。そういうしんとした時間がないと、やっぱり人間たるもの、心の潤いや、含蓄、ウィットが足りなくなる気がします。
スポーツしたり、何かを楽しんだり、オシャレしたりおしゃべりしたり!美味しいものを食べることも大事だけど、それだけではやっぱりどこかに虚しさが残るという場合、「しんとする」時間が足りていないのかも。
私はここ数年、育児にてんてこ舞いでいつだってストレスフルで、でも、美味しいもの食べたり一人の時間に楽しいことをすれば、ストレスはある程度解消できると信じてました。
でも、頑張ってそういう時間をとっても、どうしてもある空虚さが埋められていないことに気づき、はて、どうしたものか、と考えた末に、
「しんとする時間が足りてない」
と思い至りました。
これは、子育て云々ではなく、どちらかというと自分の問題でした。
どうもここ最近は、ようやく時間が取れても
「しんとしている暇があったら、あれやってこれやって、もしくはもっと能動的に人生を楽しみたまえ!」
と自らにハッパをかける傾向があった気がします。
スマホがあると、さらに誘惑に弱い私はスマホをいじってしまい、せっかくの余暇をスマホタイムで終わらせてしまうという残念なことをしています。
しんとする時間がないと、やはり心の落ち着きをとりもどすのは難しいかもしれない。
でも、急にしんとすることも(ブランクがあってなかなか)難しい。
そんな時、大いに助けになるのは「読書」かもしれないと思っています。
一人の人が本気で魂込めて書いた文章を読んでいると、気持ちが不思議と落ち着くことが多いです。
「本を読むのも疲れる」と読書すら距離を置いていたのですが、スマホいじるぐらいなら、これからは本を読みたいなと思います。
ベタですが、以前に話題になった平野啓一郎さんの 「マチネの終わりに」などを読んでみたいと、これからの秋の夜長、楽しみにしています。